昭和40年代、当時小学生だったパパの週末の楽しみは、
人気テレビ番組「8時だよ全員集合!」を見た後、
近くの空き地でおもちゃ花火(正式名称は玩具煙火・がんぐえんか)を家族で楽しむことでした。
あの頃のお父さん達は日曜日しか休みがなく、小学校も土曜日は授業でしたから、
土曜日の夜は家族全員ちょっぴり夜更かしして花火を楽しんだのです。
時代は流れ平成に。都市では公園のほとんどで花火が禁止。
マンション暮らしの家族も増え、手軽に玩具煙火を楽しむ時代では無くなりました。
我が家も玩具花火で遊ぶのにわざわざ車で仙台から20キロ離れた河川敷まで遠征するありさまで・・。
会社で花火はいっぱい売っていて、いつでも買えるのに子供と花火を楽しむのは年に1、2回。
花火好きの我が家でさえ、昭和の頃よりも明らかに玩具煙火の”消費量”が減っているのが実感です。
このままでは日本の夏の風物詩が消えるのでは?と危惧していた矢先・・。
2011年3月11日午後2時46分、立っていられない、ものすごい揺れが3分近く続いた後、
私達の暮らすこの土地と生活は一変しました。
被災地の多くで毎夏、花火大会が行われていました。
年に一度の夏祭りが震災でやむなく中止。
花火大会を楽しみにしていた子供達に見せることができなくて本当に残念です。
2008年陸前高田市での2尺玉の打ち上げ:撮影・菊田菊夫
だけど自らの自宅と職場も被災し、今なお余震の続く宮城県に暮らす
花火師のお父さん達にはよく分かっていました。
電気、ガス、水道のライフラインが完全に復旧せず、ガレキが至る所に残り、
道路、鉄道も津波で寸断された海沿いの場所で花火大会を行うのがかなり難しいことを。
花火大会には企画・運営スタッフと警察・消防の協力、仮設のトイレ、ゴミ捨て場、
観覧場所の確保、清掃、避難誘導、警備、交通整理などに大勢の人達が関わり、
なによりもお金がかかるのです。
あれから4ヶ月。
「大きな花火が無理なら、避難場所の子供達に玩具煙火をプレゼントしたい」
と芳賀社長の発案と呼びかけに、宮城県の全ての煙火業者と
玩具煙火協会が賛同してお金を出し合いました。
みんな昭和の時代に玩具煙火を楽しんだ大人達です。